敗者

 
殺す人間の世界は広がらない。必ず閉じていく。


 


死刑について考える時、私がどうしても離れられないのが「光市母子殺害事件」である。
ニュースステーションで初めて見た本村洋氏は、殆ど殺人予告と受け取られかねない発言をしていた。
世の中には感動した人も多かったようだが、私は「事件が人を鬼に変えてしまった」と、ただ悲しかった。


それから十数年。
彼は考えを更に進めて、今は死刑を勝ち取る闘いを続けている。
「死刑を勝ち取る闘い」とは、何をどう言い繕ったところで、「国に被告を殺させる」闘い、つまり「国の力で被告を殺す」ための闘いである。
初めて知った日から今日まで、本村氏を好きだと思った事は一度もない。
ただそれでも、ずっと変わらずに存在する、否定しきれない「感情」が私にはある。


・・・彼に、被告を殺させたくない。


被害者遺族は、殺してはいけない。
国は、わたしたちは、殺す/殺さないという選択を被害者遺族にさせてはならない。
「本村氏の“こころ”を、国の秩序を維持するための生贄にする」ことなど、あってはならないことなのだ。


本村氏が今の闘い方を自ら止めた時、
私は「もとむらさんよかったあ」ときっと思うんだろう。
そのくらいには好きなのかも知れない。なかなか認めづらいものではあるけれど。


(引用終了)


上記は以前、あるブログのコメント欄に「被害者遺族保護視点からの死刑廃止論」として私が書いたもの(一部加筆修正あり)。


今でも、上のような「感情」に変わりはない。


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「死刑判決に勝者はなく、犯罪が起こった時点で、皆、敗者です。」


 
間違いである。


 

人は生まれながらの犯罪者ではないように、


人は犯罪が起きた時点での敗者ではない。

 


刑事訴訟法改正により犯罪被害者が刑事裁判へ参加できるようになった2007年6月20日


裁判員裁判が初めて実施され、その判決が出た2009年8月6日、


最高裁判所第一小法廷で死刑確定の判決が出た2012年2月20日


犯罪が起こった時点から今日に至るまで、何度も何度も敗北を喫し、


そして、今この瞬間も、敗北を重ね続けている。


 


敗者は、わたしたちだ。