だって「連帯」があるから

「共闘」と「連帯」の続きです。


 


・・・で、しょっぱなから訂正です。
8/17記事の下記文章、


>もう一つは、「共闘」を呼びかける人・団体の中に、口では「みんなちがって、みんないい」と言っておきながら、実際には共闘の障害になる(と呼びかける側の人間が一方的に考える)行為を「敵視」「排除」している人・団体 【 を擁護している人 】 がいる、というお話です。


と、【 】内を追加させていただきます。
(少なくとも主催者のひとり(という認識でいいのでしょうか?)、MisaoRedWolf氏は、「みんなちがって、みんないい」などとは全く考えていないようですので。)


と訂正したところで、その「擁護している人」のご紹介。
その方は、BLOG BLUESさん(http://blogblues.exblog.jp/)といいます。


(以下「BB氏」と略記させていただきます。BLOG BLUESさんすみません。)




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まずは、件の「他ブログのコメント欄でのやり取り」をそのままご覧いただきたいと思います。


 
ブログ「Afternoon Cafe」より


「首都圏反原発連合から大阪教育合同組合への回答メールをみて考えてみました(ちょっと大事な追記有り)」
http://akiharahaduki.blog31.fc2blog.net/blog-entry-1039.html
(私が2012.08.05 ( Sun ) 17:47:56に初回のコメント。
それに対してBB氏は2012.08.06 ( Mon ) 00:10:06にコメント。
それに対しての私の回答?は2012.08.06 ( Mon ) 04:01:50。
それを受けてのBB氏のコメントは2012.08.06 ( Mon ) 18:02:40。)


 
話の全体としては、「“シングルイシュー”についての考え方の違い」が一つのテーマでした。
デモ主催者側が「“反原発”以外の主張(と世間一般の人から受け取られうるもの)はデモから排除したい」のに対して、デモ参加者(の一部)は「“原発を推進する力”に対しては当然デモで批判するべき」というのがお互いの考え方の前提としてあり、具体的に問題となったこと(の一つ)は「デモで組合旗を出すことを認めるか否か」でした。
BB氏の主張は、おおざっぱに言えば「主催者にはデモで組合旗を出させない権利がある」というものでした。
私は、まあ主催者自身が「権利がある」と主張するんであれば、それはそれで別にいいんです。
ただしかし、その場合の「権利」というのは、「誰にも批判されない権利」ではありません。
そして、もちろん「権利がある=正しい」という性質のものでもありません。
問題はむしろその先、批判が「正しい」かどうか、そして正しいのであれば、その正しい批判を受けた時に批判を受けた側がどう対応するか、だと私は考えていたのですが、BB氏の考えはそうではありませんでした。


>リクツが通ってりゃ正当って考えでは、連帯をなし得ないと思うけどなあ。


ようするに「連帯のためには批判をするのは控えるべき」ということで、それをBB氏は「愛」と表現しておりました。


私はもちろん「「批判≒愛ということ」めざして」いますので、BB氏の考えには到底賛成できません。


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これはBB氏だけではないのですが、「“批判≒叩き→分裂”となる、だから批判はよくない/だから左翼は衰退したのだ」という論調をよく目にします。
しかし、これはどう考えても「≒」や「→」が悪いのであって、決して「批判」そのものが悪いのではありません。
「批判は叩きだ」として“批判された側”が“一方的に”対話をする回路を閉ざしたり、お互いが“一方的に”批判し合ってお互いが“一方的に”回路を閉ざしあったり、そうやって分裂する、そういった「相手と向き合うことに対する稚拙さ」こそが、むしろ真の「左翼の衰退」の原因の一つでした。
(右翼であるために「相手と向き合う」ことは必ずしも必要ではありません。ここらへん、右翼と左翼は非対称なんですよね。)
もちろん、「批判≒叩き」として利用する、というよりもただの「叩き」を「批判」と“詐称”する、そしてそれをマジョリティが“追認”する、というのも原因の一つです。
内田樹ですら“このように貧しく刹那的なやり方が、今は「ディベート」と呼ばれて話し方の標準になっています。”と言ってしまうくらいに“追認”されてます。)
そしてそれらは「左翼の〜」にとどまらず、日本において民主主義が根付いていかない大きな原因でもあります。


「批判」とは、自分を変えてくれる“きっかけ”でもあります。
しかし「批判=叩き」論者は、その“きっかけ”を無力化して、つまり“批判された人”に「そのままでいいんだよ」とささやいて、結果“批判された人”が「成長するのを阻害している」のです。
そうやって、みんなして「そのままでいいんだよ」とお互いが言い合い、一人一人が成長をやめ、数々の問題はそのままにされ、いつまでたっても民主主義が未熟なままなのです。
憲法じゃないですが「不断の努力」によって維持・向上させていかなければならないもの、一朝一夕に結果が出ないもの。
民主主義というのは、だから難しいのです。


(“憲法”が出たついでに。最近、何を勘違いしたのか「サクサク動くOS」と「可視化された民意」があればOKなどと言ってる人がいるようですが、私に言わせればそんなものは「人間をバカにしたアイディア」であり、そしてそれは、そもそも「民主主義」の名に値しません。)


「連帯」とは、単に仲よくすることではありません。
それは「敵と戦う意思を共有する」ことであり、“一定の妥協”が前提されている「共闘」とは違って、


「自分自身を変える価値がある批判をできる/してもらえる相手、そのようにお互いを認め合える者同士が成し得るもの」


それが「連帯」であるはずです。
だからこそ、人々は安易に連帯することはできず、しかし真に連帯した時の力というのはとても大きいのです。


ですから私自身の考えとして、


「『リクツが通ってりゃ正当って考えでは、連帯をなし得ないと思うけどなあ。』なんていうメンタリティじゃあ、けっきょく連帯なんかなし得ないと思うけどなあ。」


そして、


「福島の方は、心の底から感謝していて、だから首都圏反原発連合には何の問題もないんでしょう。
だって「連帯」があるから!  」


(もちろんこれは、リーガル・ハイの「だって絆があるから!」と同じ意味です。)


というコメントを書きました。


しかしこれらが、BB氏に言わせると「身に降る火の粉」なのでしょう。


つまりは、自分自身にささやく「そのままでいいんだよ」。


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私は初めのコメントを、単なる感想として書きました。
また、2回目のコメントもBB氏に「回答は不要」としました。
これは、BB氏が「人の質問にまともに答えない」人であることを、経験上知っていたからです。


「村野瀬玲奈の秘書課広報室」
“税への不満は税が高すぎるからではなくて税の使い方が不適切だから、と考えるところから始めよう。”
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-2063.html


のコメント欄で、私自身が一回だけやり取りしたことがあるんです。


 


「消費税増税反対」だけ言っていたんでは保守勢力に負けるから、「消費税増税賛成」と主張して、その分医療費教育費全額無料などの社会保障を勝ち取ろう


 
というのがBB氏の主張ですが、その主張が「正当」であることを示すには「消費税増税が必要である」ことを示す、すなわち自らの予算案の収支をおおざっぱにでも提示する必要があるでしょう。
ですから私は「試算を示してほしい」として


>BLOG BLUESさんが考える全ての政策を実施した結果、消費税は減税(または0!)になる可能性だって無い訳じゃないですからね(もしそうなるなら、「消費税増税反対論者は貧乏人の敵」は国民を欺いたことになってしまいますw)。


と書いたところ、なんと


>いくら主権者だからって、政治家でも官僚でもない、ロケンローラーの僕に、国家予算の歳入・歳出プランを示せたって、そりゃお門ちがいってもんでしょ。


と「逃げられて」しまいましたwww。


ただ、別コメントには「トラックバック記事にすべて書いてある」とありましたので、試算未満のものであっても何か書いてあるに違いない、とTB記事(http://blogblues.exblog.jp/8747581)を拝見しました。
そうしたら、試算はなかったのですが、かわりにコメント欄にBB氏による判断根拠?が書いてありまして、


>消費税増税なしで「教育費医療費はタダ」になるのなら、諸手を挙げて大賛成だ。でも、僕の常識は、それはあり得ないだろうと判断する。


つまり根拠は「BB氏の常識」!


そんなものを根拠に、「今のままでは保守勢力に負けてしまうから、だから『譲歩戦術の道具として』消費税増税を革新勢力自ら言いだそう」などと言われても、賛成できるはずがありません。


(それに比べて「何度でも説明して日本全体を説得するのです。最初は抵抗があるかもしれませんが、よく説明すれば理解は広がると思いたいです。」という村野瀬さんのなんと真摯なことか。)


BB氏の「民主主義観」は、2年前と全く変わっていませんでした。
(もちろん、それと対照的なのが↑の村野瀬さんの民主主義観です。)
それにしても、私が[11530]で書いたBB氏に対する第一印象、自分で言うのもなんですが、ケッコウイイセンイッテルトオモイマセンカw。


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話題を首都圏反原発連合に戻しますが、この問題については、下記のブログ記事が「決定的」でしょう。


「薔薇、または陽だまりの猫」
脱原発デモの内なる敵はサヨクネトウヨなんです MisaoRedWolfインタビュー/週刊ポスト
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/427261bc909b9271211e3e057bc30459


 
※本エントリーUP直前に著作権関連でリンク先ブログ主自ら削除されましたので、関連エントリーをリンクします。


「薔薇、または陽だまりの猫」
”反原連 MisaoRedWolfさんインタビュー(週刊ポスト)を読んで/ブログ旗旗 から”
http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/89faf6784734b8fcd4e1f01b1696eb44


全文は、図書館などで見るしかないでしょうね。
読んでいただければ、私の言いたいことがより良くわかっていただけるとは思いますが、はっきり言って一般的な意味での読む「価値」はありません。


 
私はMisaoRedWolf氏をよくは知りませんでしたが、正直ここまでヒドイ=幼稚だとは思いませんでした。


もちろん、反原連のメンバーは彼女だけではありません。
だからこそ、「連帯」し続けるのであれば、そして彼女の考えが正しくないと思うのであれば、特に反原連のメンバーは彼女を「批判」しなければなりません。
彼女は「原発は要らないっていう“純粋な”気持ちで来ている参加者」に「そのままでいいんだよ」とささやくことで、とにかく「数を増やすこと」を重要視しています。
これは彼女が人々に「脱原発さえ達成できれば、(とりあえずは)幼稚な民主主義(未満)の状態のままでいいんだよ」と言っているに等しいのですが、それ以上にそれが“無意識”であるという点で、彼女自身の「民主主義観」が幼稚であることの証明にもなっています。
多くの人と「連帯」している、「批判≒愛」が実践できる仲間が身近にたくさんいる今は、むしろ彼女の「成長」のチャンスなのではないでしょうか。
もし「だって「連帯」があるから!」という理由で批判できないとしたら、外部の人から「反原連のメンバーはみな同様の民主主義観を持っている」と看做されても仕方がありませんし、「内部で批判できない組織は内部から崩壊する」現象がいずれ起きてしまうでしょう。


首都圏反原発連合の、早くもここが正念場なのかもしれません。