タイガーマスク運動

私は子供のころから、自分の両親が「選挙で誰に投票したのか」を知らない。


それは、親子で政治の話をしなかったから、ではない。
「たとえ家族であったとしても、誰に投票したかはお互い訊いても言ってもならない」というのが我が家のルールだったのだ。
両親は、「これが“内心の自由”を保障するということだ」と言っていた。
もちろん、誰に投票したかを「エライ人に知られたりなんてのはもっといけない事」であり、投票というのは、だから「無記名であるのが当たり前なんだ。」とも。

そして、こんなことも言っていた。

「お前にはまだ選挙権はないけれど、それはお前がまだ未成年だから・・・
・・・というのは、じつは『大人の側が一方的に決めた正しさ』だ。
だから投票というのは、大人の側が一方的に決めた『投票権を持っていない』人間、つまり子供たちや、そして『今はまだ生まれていない未来の人々』のことも考えて投票しなきゃならない。
大人たちは、いつも『子供たちの代理として』投票していることを忘れてはならないんだ。
だから、お前が二十歳になって、投票するようになって、それはもちろん自分のためではあるけれど、それ以上に子供たちのために、それも自分の子供だけというんじゃなくて、『世界中の子供たちのために』投票しなければならないんだよ。」


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最近、ニュースを見ていてふと気がついた。

選挙って、誰がどの候補者に一票入れたのかはわからないけれど、その一票が未来を決めるためのもの、つまり子供たちに「よりよい未来を贈るため」のものであるならば、それって今流行の「タイガーマスク運動」なんじゃないかって。

しかも、ランドセルを買うだけの余裕がない、たとえば私のような者であっても、子供たちのことを考えて投票することはできるのだ。


「よりよい未来」という贈り物を、名前も名乗らず、投票箱を通して子供たちに贈る「伊達直人」。


たとえどんなに貧しい者でも、投票箱の前では誰もが「伊達直人」になれる。


タイガーマスク運動」ついて、「一度やってみたいけど、ちょっと敷居が高いしなあ」なんて思っている人がもしいたら、そんな人はぜひ、まずは投票箱の前で「伊達直人」になってみてください。