サポーター

サッカーには「サポーター」という不思議な制度?が存在します。


他のスポーツであれば、あるチーム/選手のファンというのは、自分の好きなチーム/選手の試合を見に行ったり応援をしたりします。
しかしサポーターというのは、それだけでは我慢?ができずに、好きなチーム/選手に対して自分の考えを表現するのです。
選手に対しては練習を含めたプレイ一般、監督に対しては戦術や采配、チームに対してはクラブ経営を、自らの意見を遠慮せずに口にします。
チームが勝っている時はそれでもまだおとなしいのですが、負けが込んでくると試合後の選手バスを囲んだり、「社長を出せ」とスタジアムに何時間も居残ったり、それはなかなかな気合の入りようです。


しかも面白いのは、当のサポーター自身だけでなく、普通のファン、選手、チーム関係者、そしてサッカー周辺のすべての人々が、このサポーターという存在を「当然のこととして」認識していることです。
特にチーム経営側は、サポーターに批判されることはあっても賞賛されることなど滅多にない(優勝した時くらい)というのに、それでも「サポーターというのはチームのためにならない」などとは決して考えていないのです。
(まあ「言わない」だけで腹の底では…かもしれませんが、そういうチームであっても少なくとも建前は「愛を持って厳しい指摘をしてくださるサポーターは、チームにとって必要不可欠な存在」。
サポーターを蔑ろにするチームがほぼ例外なく下降線をたどっているのは、その「建前」が正しいことの証明に他なりません。)


一方サポーターの側も、自分たちが「よりチームに貢献できるように」、口を出す内容については一生懸命勉強します。
サッカーの技術、戦術、采配、チーム経営やプロスポーツマネジメントに至るまで、およそ私生活では役に立ちそうにないものでも、チームのためになりそうなもの全てがお勉強の対象です。
スポーツ医学や古武術に詳しいサポーター、100年前からの戦術変遷を空で言えるサポーター、財務諸表やバランスシートを分析するサポーター。
熱心なサポーターほど、熱心なサッカーヲタクでもあります。
そして、ヲタクであるということは、選手ヲタ、監督ヲタ、チームヲタなどの考え方の違い(派閥)ができるということでもあり、その結果しばしばサポーター間で喧々諤々やりあうこともあります。
しかし、両者の間には「チームのために」という共通の目標があるため、「ケンカのためのケンカ」という不毛な状態に陥ることはそれほどありません。


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Jリーグも、今年で発足20周年。
日本でもサッカーが日常生活に浸透してきました。
サッカー由来の「サポーター」という言葉、「支える人」という意味として、今では違和感なく使われています。
人権サポーター、ふるさとサポーター、エコサポーター、・・・


でも、これらの「サポーター」って、英語訳の「支える人」ではあるんだけど、サッカーの「サポーター」のような、「自分の意見を言う人」としては捉えられてないんじゃないかな、とfunaは思います。


それは、当のサポーター自身というよりも、サポーターの周りの人々。
物言わず支えることが美しく、物言うことは見苦しい、なんて思っていませんか。


でもね、せっかくのサッカーからの「サポーター」なんだし、「サポーター」ってものの捉えられ方も、もっとサッカーらしくなってもいいんじゃないかな、と思います。


サッカーのサポーターの、ニュースになる部分だけ取り上げちゃうと、どうしても不祥事的なこと(フーリガンとか)が多いんだけど、これはサッカーファンとして請け負いますが、ほとんどのサポーターは「愛する対象を自らの不祥事で穢してはならぬ」という意識がとても強くて、その意識ゆえに彼らの中で自浄努力が働くんです。
例えばスタジアムの、試合が終わった後、スタンドにそのまま放置されたゴミを頼まれもしないのに集めて帰る。
しかもアウェイ遠征先では「チームに迷惑を掛けないように、ゴミはゴミ箱へ捨てて帰りましょう」と、これまたチームから頼まれもしないのに呼びかける。


サポーターってのは、そういうもんなんです。


サッカー以外のいろいろなサポーターにも、選手(この場合議員・専門家・ジャーナリストなど)に、監督(首相?)に、チーム(国?)に「物言う」サポーターであってほしい。
そして、日本社会が「サポーターが物言う事を当然のことと思う」社会であってほしい。
それは決して「声が大きい者勝ち」の社会にはならないはずです。
サポーターに「サポーターとしての矜持」が、そして周りの人々に「いろいろなサポーターへの、サッカーのサポーターを見るような眼差し」がある限り。