「批判≒愛ということ」めざして

ようこそfunaboristaワールドへ。


このブログを始めた目的の一つに「人様のコメント欄にあまり長い文章を投稿して迷惑を掛けないようにしよう」というのがあります。
今回はその第1回目。
こちらのブログ(「身近な一歩が社会を変える♪」(http://newmoon555.jugem.jp/))でのやり取りからです。


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「批判 ≒ 愛 ということ」(http://newmoon555.jugem.jp/?eid=307)のコメント欄で、月ノヒカリさんが


>私は、ディベートとは、議論で勝ち負けを争うゲームだと思ってました。


↑の認識は、正しいですよ。
でも、「真のディベートとは、自らの意見が変わる可能性が常に確保されていなければならない。」もやはり正しいんです。
どういうことなのか。
わかりやすいようにJリーグ非公認普及員の義務として、サッカーに喩えて解説しましょうw。


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ディベートもサッカーも、勝ち負けを争います。
で、どちらにもルールがあります。

サッカーの目的とは、これは結構勘違いをしている人もいるんですが、まずは試合、それも「より良い試合」をすることです。
サッカーとは、勝つことだけに価値があるのではなく、もちろん負けたら意味がないというものでもありません。
もし勝利だけに価値があるのなら、負ける可能性が高い試合なんかやらなければいい。
でもそれでは、弱いチームは自分たちより強いチームと試合ができないのですから、いつまでたっても強くなれないし、なによりサッカーの醍醐味である「ジャイアントキリング」は、ただの一回も起こらないことになります。


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どうしても負けたくなかったら、ルールを自分に有利なように変更してしまえばいい。
そんな、サッカーの世界ではとても考えられないことが、なぜか言論世界ではまかり通ってしまうようです。
どうしてもゴールされたくなかったら?
極端な話、ゴールの大きさをボールより小さくしてしまえばいいのですw。
たとえ的確に批判されても、「それは誤読だ」とか主張して「自分のゴールを小さくして」失点しないように頑張る人、結構いますよね。
サッカーは「勝ち負けを争う」ものですが、同時に「自らがゴールされる可能性が常に確保されてなければ」なりません。
言論も本来同じはず、なんですけどねえ。

そうそう、サッカーの喩えをあの橋下徹に適用すると、
「相手にゴールされたのにそれを無視して、試合そっちのけでベンチからボールをたくさん出してきて、相手めがけてボンボン蹴り込んで、ゴールネットも揺らしてないのに勝った勝ったと大騒ぎ」
といったところになるでしょうか。
いつの世も、どんな世界にも、「橋下徹」は存在します。
問題は、それを見て同じように勝った勝ったと大騒ぎする観客にあります。


サッカーの場合、良い選手・良いチームは、良いサポーターが育てます。


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サッカーには怪我がつきものです。
が、Jリーグの選手で「勝つためなら(自らの)怪我も辞さない」という選手はいても、「勝つためなら相手を怪我させてもいいのだ」などと考えている選手は誰一人としていません(はずです)。
しかし言論世界では、「自らの勝利のためなら、相手を怪我させてもいいのだ」と考えている人、それどころか相手を「怪我させてやろうと」必死になっている人のなんと多いことか。
そういう人々にとって、ディベートとは、言論とは、「相手を傷つけるための道具」でしかありません。
内田樹のこちら(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/28694)にも、


>このように貧しく刹那的なやり方が、今は「ディベート」と呼ばれて話し方の標準になっています。


と書かれているくらいです。
しかし、ディベートとは本来、松本道弘の言うように「相手を言い負かすための技術・道具ではない。」のです。
ところで、松本がこのように言ったのも(私の記憶が確かなら)何十年も前。
そのころから既に、ディベートは本来の姿とは違う形で世の中に広まってしまい、それを危惧しての発言だったのでしょう。
内田樹であればそのあたりの事情は間違いなく知ってるはずで、そのへんの注釈は一言加えてほしかったと思います。


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月ノヒカリさんが、


>相手にもよるんですけど、「どんなに対話を交わしてもわかりあえなかった」という徒労感だけが残る、ということが多い気がする。


>それから、反論とか再反論とかは、結局のところ議論が好きな人、話し上手な人(弁護士みたいな)が勝つようにできているのではないか、とも。


と感じているのは、ですからよく理解できます。
しかし、↓を見てください。


ディベートの得点と勝敗」(http://debateislife.com/archives/547


ディベートでの勝敗は、獲得ポイントによるのではなく、論題が肯定されたか否定されたかで決まるのです。
つまり、技術不足で獲得ポイントが低くても、論題の肯定/否定に成功すれば勝ちなのです!
必ずしも「上手」が勝つわけじゃない。なんか希望が出てきませんか。



私は先に「本来は」と書きました。
しかしこの「本来」、決して天から降ってきたものではなくて、人間が作り上げてきたもののはずです。
「こうありたい」という思いがその源泉であるならば、それこそ「身近な一歩が社会を変える」ように、まずは私たちから始めましょうか。
・・・ね、月ノヒカリさん。


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サッカーとは
「両者がどれだけお互いアグレッシブに、どれだけ内容を積み重ねていい試合ができたか」
が大切なのであり、
ディベートとは
「両者がどれだけ的確なラリーを続けて、どれだけ深く内容を掘り下げることができたか」
が大切だとfunaboristaは考えています。
試合の前より勝者/敗者ともに少し強くなって、それをベストを尽くした対戦相手にお互いに感謝する、
そのような「相手を尊敬する気持ち」を育てる力が、「サッカー」にも「批判」にも、きっとあるはずです。


問われているのは、きっと私たちなのです。