手紙

これは「「勝ち負け」ではなく「痛み分け」で」に対する「お手紙」です。


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まずは、内田樹に対する批判から。
月ノヒカリさんは「手紙」として書かれていましたが、
これを「言論」でやるとどうなるか。
funaも、ちょっと実際にやってみよう(あくまでfuna的言論ですがw)。


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内田樹はこう書きました。


・・・(引用開始)・・・


 朝日新聞の「ロストジェネレーション」も、それぞれ自分の身体や生活を持っている人々を、前述のように「強欲で無能な中高年」という記号にして、彼らへの憎しみを煽った。暴力性の桁は違いますが、これもアメリカの「イスラムのテロリスト」に対する憎悪と本質的に同型のものです。記号として扱われ、顔を持たない人間たちに対して、人間はいくらでも残酷になれます。


   内田樹「呪いの時代に」


・・・(引用終了)・・・


ロスジェネ世代がなぜ「上の世代」を憎むのか。


例えば就職氷河期にぶち当たったとき、「就職できない自分が悪いのだ」とひたすら自分に原因を求めるストイックな人でもなければ、「こんな世の中に誰がした」と思うのが、まあ普通ですよね。
悪いのは政治?社会?
じゃあその政治や社会をつくりだしているのは誰?
民主主義国家である以上、それは当然「有権者」じゃあないですか。


新卒で就職できなかったらそれ以降の人生において正規雇用で働くチャンスが極端に狭い「新卒偏重の社会」をつくったのは?
上の世代ですよね。
新卒で就職できなかったら、正規雇用で働けなかったら、経済的にほとんど社会の底辺を彷徨うように生きるしかない「格差社会」をつくったのは?
これも上の世代ですよね。
こういう「生きづらい社会をつくった責任」に、それなのに上の世代が絶望的なまでに無自覚・鈍感なことに対して、ロスジェネ世代は怒ったのです。
非正規・生活保護なロスジェネ世代のこの怒りに対し、上の世代、それも正社員→年金満額受給な人々は「フリーターは自己責任」「ニートは甘え」と「呪いの言葉」で返した!
そりゃあ憎むなってのが無理ってもんです。


記号にしたのは、なにも「ロスジェネ世代が上の世代に対して」だけじゃない。
むしろ上の世代こそ、昔からずっと、あらゆることを記号化しまくっていて、ロスジェネ世代に対してもその例外ではなかったというだけ。
ただ、労組のトップでも「企業が主犯、労組は従犯」とその責任を認めた人はいる(http://ohtake.cocolog-nifty.com/ohtake/2008/12/post-dfcc.html)。
そしてロスジェネ世代だって、例えば「ドヤ街で働いて無年金な上の世代の人々」にまで「上の世代という記号」を被せて憎んでいるわけじゃない。
内田樹は、学者であれば、そういう現実を見つめ言葉を丁寧に紡ぐことで「記号化」に抵抗すべきでした。


では、その内田樹は今回何を語ったのか。


>『強欲で無能な中高年』という記号にして、彼らへの憎しみを煽った


記号化はお互い様というのは置いといて、内田樹によるとそれは


アメリカの「イスラムのテロリスト」に対する憎悪と本質的に同型


なんだそうです。


アメリカとイスラム、世界を規定しているのはどちらですか?
アメリカですよね。
そうであるならばこの喩え、実態は全くこの逆で、正しくは「イスラム=ロスジェネ世代」「アメリカ=上の世代」でなければならない。
つまり「イスラムアメリカに抱く憎悪」こそ「ロスジェネ世代が上の世代に抱く憎悪」であり、「アメリカの『イスラムのテロリスト』に対する憎悪」こそ「上の世代がロスジェネ世代に抱く憎悪」なんじゃあないんでしょうか?


じゃあなんで内田樹は「ロスジェネ世代の憎しみ」を「アメリカの『イスラムのテロリスト』に対する憎悪」なんて喩えたのか?
それは「ロスジェネ世代の憎しみの根源」がついに理解できなかった内田樹が、やはり内田にとっての理不尽な憎しみである「アメリカの『イスラムのテロリスト』に対する憎悪」を、「理不尽」という部分だけで同質だと感じてしまったからでしょう。
この喩えには、上の世代を政治的に免責する効果、そして「ロスジェネ層の憎しみは不当なものなのだ」というイメージを刷り込む効果があります。
しかしそれは、ここまでfunaが論じてきたことでおわかりのように、誤ったレッテルなのです。


ロスジェネ層の怒り/憎しみを理解できず、誤ったレッテルを貼り、ロスジェネ世代を「記号」にして、彼らへの憎しみを煽った。
内田樹のロスジェネ層に対する言説こそ、内田自身の唱える「呪いの言葉」そのものなのではないでしょうか。


・・・とまあこんな具合でしょうか。


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funaは、客観的・論理的な(理屈っぽい)物言いを多くします。
それは、その方が多くの人に伝わりやすい/考え方を共有してもらえると思っているからです。
とくに社会の問題を語るとき、それは「個人」や「感情」の問題ではなく「社会」や「構造」の問題なんだということを理解してもらうためには、どうしても客観的な語り口が必要です。
そして多くの人に考え方を共有してもらうためには、そこには「私」はなるべく反映しない方がいい。
例えば上の文章は、ロスジェネ世代の怒り、内田樹の誤りを構造的に認識してもらうためのものです。
(私の怒りは「学者が雑な論理で誤ったレッテルを貼っている」こと、「内田樹というネームバリュー故にこのレッテルがさも正しいかのように広まってしまう」こと、大きくはこの2点であって、実は内田氏個人に対してはある種の諦めもあって、怒りの感情ってのはそれほど強くないのです。
(諦めの参考→http://blog.zaq.ne.jp/spisin/article/1450/))
それでも「嫌いな人」ではなく、学ぶところも多いと思っているので、なんとか「叩き」ではなく「批判」で踏みとどまれたと思いますがいかがでしたでしょうか。


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ディベートの認識、あってますよ。
さらに言うと、ディベートは「相手(≒敵)の立場になって考えてみる」のと同時に「自分の考えの弱点を知る」ことに役立つとfunaは考えています。
funaは論理的文章を書く前に、脳内一人ディベートをやりますw。
これが意外と、書く前に自分の誤りや甘さが発見できたりね。
ただ、


>「相手の主張に耳を傾け、落としどころを探る」(by内田樹


に対しては懐疑的なんですよね。
なぜか。
例えば月ノヒカリさんが10を主張していて、funaがマイナス10にしたいなと思ったら、funaは自分の本当の心を隠してマイナス100を主張して、譲るふりしてマイナス10に落としどころを誘導すればいい。
日本の政治なんて、権力側がマイナス100を主張してばかりじゃないですか。
「相手の主張に耳を傾けることの大切さ」は、得てして権力側がよく説くものだったりします。


ディベートは、ゲームです。
だからこそ、重要な政治決定や人生の決断にディベートの結論を適用してはいけないとfunaは考えます。
そもそも「原発の是非」なんてのは、ディベートのテーマとしては相応しくないんですよ。


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この対話、きっかけは「批判とは」でしたね。
funaは「批判を通じて相手を尊敬する心を育てよう」として「批判≒愛」論を展開しました。
月ノヒカリさんは、なぜ自分が批判を求めるのかを掘り下げ、それが「承認」だということに辿り着きました(とfunaは勝手に思っています)。
funaは「より多くの人と連帯するためのある共通の考え方」を提示しようとしました。
月ノヒカリさんはおそらく「つながり方はそれぞれ違う」とおっしゃることでしょう。


思えば私が「拍手コメント」をするとき、私は月ノヒカリさんに「手紙」を書いていました。
時に理屈っぽく、時に感情的に、時に何の形容もなく。
ただいつでもそれは「一般的に」ではなくて「私は〜」。
それは、月ノヒカリさんから、いつも「手紙」をもらっていたからです。


きっと「痛み分け」がしたかったんでしょう。
それは、勝ち負けがつかない「引き分け」ということではなくて、
月ノヒカリさんの痛みを私にわけてほしかったということ。
月ノヒカリさんに私の痛みを受け取ってほしかったということ。

「それぞれ違う」ように、月ノヒカリさんとつながりたかったのでしょう。


私にとって、月ノヒカリさんからわけてもらえたものは、痛みも祝福も同義語です。


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おそらくこれから私のブログは、半分は客観的な文章を書くと思います。
それが、より多くの人に伝わる方法だから。
しかし、あとの半分は、私の「身体的な言葉」を綴るつもりです。
それは「私」そのものを理解してもらうため。
お花畑目指して「手と手をつないで」いっしょに歩くため。


そのときは、私もみなさんに「手紙」を書くことでしょう。
(というか、今まで書いたのって、結構「手紙」だったと思うんだよね。)


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今回は特に「手紙」を意識して書きました。
だから特に結論はありません。
読んでる人は置いてけぼりだったかもしれません。
「手紙」なので、そこらへんはあきらめてください。


西向きの窓から、月ノヒカリが差し込んでいます。
もうすぐ満月ですね。