いつまでも従っていると思うなよ

funaboristaがブログやってみようかなと思ったのは、ネット上で書かれていることで、ああこれ自分と同じこと考えているなあ、自分が言いたかったことが書いてあるなあ、っていうのがとても少なかったから、というのが理由の一つです。
これはたぶん、もともとネットをあまり見ないからっていうのもありますが、細かいこと、ちょっとした違いも気になってしまうからっていうのもあるんだと思います。


そんなfunaboristaでも、たまには「これはなかなか」って思うものに出会えることがあります。
先日その「たまに」がありましたので、今回はそのご紹介。
國分功一郎氏の「デモについて」のツイートとブログを掲載します。


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國分功一郎ツイッターhttps://twitter.com/#!/lethal_notion
 


日比谷公園に来てます。イベントのタイトルが「ピースオンアース」だって今知りました。家から弁当持ってきました。いい天気で気持ちいいです。


さっき中田英寿とすれちがった!


いま後方ではSugizoピースボートの人とステージで喋ってる。


日比谷公会堂では専門学校残る卒業式で、綺麗な格好のお姉さんたちが。その前ではのぼりがたくさんのディープなデモが。


それにしてもスゲー数の警官だな、おい!


「警視庁機動隊 写真」という腕章をした人達が、デモの参加者を写真に収めている。なお、この腕章をした人達は普段着である。


いよいよデモがスタートする。


車に乗って演奏する人達の一人が、警官たちに「よろしくお願いします。」と頭を下げていた。


先頭に小熊英二がいる。


デモだってのに、ホントにせまっ苦しいところを警官と一緒に歩かされるんだな。フランスじゃ、考えられん。デモが通る道は普通、閉鎖だからな。


黒いコートを着て、右の耳にイヤホンをつけ、ジッと立っている、俺の目の前の中年男性はやはり公安なのか!?


そのオトコが「先頭は環七いりしました」と左の同僚(?)に耳打ち。


それにしても日本のデモ隊は警察の言うことをよく聞くな。デモにあっても こんな感じで統制が取れているのだから、この統制力をつかって「はい、皆さん、2時からちょっと節電して下さい」とやれば、ブラックアウトなどぜったいに起こらない。


車両が通行している横を歩かされるデモは極めて陳腐に見える。


デモを陳腐に見せる為に、車両は通行させたまま、道の端、細ーいところを歩かせる。通行人と車両に挟ませる。こんなのがデモなのか。警察に前後左右を挟まれてるなんてデモと言えるのか。


デモのことをフランス語ではmanifestationと言うが、これは、何か隠れていたものが顕現するというニュアンス。日本のデモでは、顕現が起こらないように、全力で規制が行われている。


先月号のスタジオジブリPR誌『熱風』デモ特集に短文をよせているのだが、そこで書いたことの妥当性を再度確認した。


デモにはメッセージがある(脱原発等々)。しかし重要なのは、膨大な数の人間が街にドッと現れているというこの事実そのものであり、これは一種のメタ・メッセージを構成する。つまり、「いつまでも、従ってると思うなよ」というメタ・メッセージだ。


先ほど述べた顕現とは、このメタ・メッセージの顕現なのだと思う。確かに権力はこれを怖がる。だから、全力で規制する。バンバン走る車両と、白い目の通行人の間を歩かせる。
 


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國分功一郎ブログ「Philosophy Sells...But Who's Buying?」
http://ameblo.jp/philosophysells/
 


【再掲】「パリのデモから考える」2012年03月12日
スタジオジブリ小冊子『熱風』2012年2号「デモ」特集号掲載)
http://ameblo.jp/philosophysells/entry-11190461401.html
 


 私は学者の端くれであって社会運動家ではないし、研究しているのも哲学であって社会運動史ではないので、デモについて深く広がりのある話をすることはできない。ただ、全くの偶然から、デモが盛んな某国について少々知識を得ることがあったので、そこから考えたことをここに記しておきたいと思う。


 デモが盛んな某国とはフランスである。私は2000年から2005年までフランスのパリに留学していた。先に「全くの偶然から」と書いたが、その偶然とは私が住んでいた場所のことである。私はパリの東側にあるナシオン(Nation)という駅のすぐ近くに住んでいた。この駅がデモと何の関係があるかと言うと、この駅の広場がパリで行われるほぼ全てのデモの終着点だったのである。


 日曜日、パリだけではないがヨーロッパの街は静かである。やることがない。開いているのは教会と映画館ぐらいである。私もだいたい部屋にこもって本を読んだり、テレビを見るというのが常だった。そんな静かな日曜の午後、時折、「ゴー」っと言う音が迫ってくることがある。「なんだ?」と思って窓を開くと広場に厖大な数の人が集まっている。デモである。


 パリのデモはだいたいパリの北部を西から東へぐるっと回るように進み、ナシオンにやってくる。だから、ナシオンに住んでいた私は、あの五年間にパリで行われたデモはほぼすべて見ていると思う。


 さて、デモが来たなと思うと、だいたい見に行く(日曜日は暇なので)。先頭がナシオン広場に到着しても、後続部はまだまだずっと遠くだ。というわけで、多くの場合、私はデモの流れとは反対に先頭から後ろに向かって歩き、デモの様子を見て回っていた。


 パリのデモを見て最初驚いたのは、ほとんどの人が、ただ歩いているだけだということである。横断幕を持ってシュプレヒコールを挙げている熱心な人もたくさんいる。しかし、それは一部である。多くはお喋りをしながら歩いているだけ。しかもデモの日には屋台が出るので、ホットドッグやサンドイッチ、焼き鳥みたいなものなどを食べている人も多い。ゴミはそのまま路上にポイ捨て。


 デモが終わると広場で代表者みたいな人が何か演説することもある。それを聞いている人もいれば、聞いていない人もいる。みんななんとなくお喋りをして、ナシオン駅から地下鉄に乗って帰って行く。


 さてデモはこれで終わりだが、実は、私のような見物人にとってはまだまだ面白いことが続く。デモが終わったと思うと、デモ行進が行われた大通りの向こうから、何やら緑色の軍団が「グイーン」という音をたてながらこちらに向かってくるのだ。何だあれは!


 あれはパリの清掃人の方々、そして清掃車である。彼らは緑色のつなぎを着て、プラスチック製の、これまた緑色の繊維を束ねたホウキ(要するに日本の竹ぼうきをプラスチック製にしたもの)で路上のゴミを集めながらこちらに向かってくる。その後ろをゆっくりと進んでくるのが数台の緑色の清掃車。そのフロント部には二つの大きな回転式たわしのようなものがついていて、それが「グイーン」という音をたてながら、清掃人たちが集めたゴミを次々に吸い込んでいく。


 デモの最中、ゴミはポイ捨てなので、デモが行進した後の路上はまさしく革命の後のような趣になる(単にゴミが散らかっているだけだが)。しかし、彼らパリ清掃軍団がやってきて、あっという間に何事もなかったかのように路上はきれいになるのだ。パリ清掃軍団の清掃能力はすごい。彼らは毎夕、街を清掃している。そうして鍛え上げられた清掃能力がデモの後片付けを一瞬にして終えるのである。これはどこか感動的である。
 



 
 パリのデモがゴミをまき散らしながらズンズン歩くという事実は、デモの本質を考える上で大変重要であると思う。


 デモとはdemonstrationのことであり、これは何かを表明することを意味する。何を表明するのだろうか。もちろん、デモのテーマになっている何事か(戦争に反対している、原発に反対している…)を表明するのであるが、実はそれだけではない。


 デモにおいては、普段、市民とか国民とか呼ばれている人たちが、単なる群衆として現れる。統制しようとすればもはや暴力に訴えかけるしかないような大量の人間の集合である。そうやって人間が集まるだけで、そこで掲げられているテーマとは別のメッセージが発せられることになる。それは何かと言えば、「今は体制に従っているけど、いつどうなるか分からないからな。お前ら調子に乗るなよ」というメッセージである。


 パリのデモでそれぞれの人間がそんなことを思っているということではない。多くの人はなんとなく集まっているだけである。だが、彼らが集まってそこを行進しているという事実そのものが、そういうメッセージを発せずにはおかないのだ。


 デモは、体制が維持している秩序の外部にほんの少しだけ触れてしまっていると言ってもよいだろう。というか、そうした外部があるということをデモはどうしようもなく見せつける。だからこそ、むしろデモの権利が認められているのである。デモの権利とは、体制の側が何とかしてデモなるものを秩序の中に組み込んでおこうと思って神経質になりながら認めている権利である。「デモの権利を認めてやるよ」と言っている体制の顔は少々引きつっていて、実は、脇に汗をかいている。


 すこし小難しいことを書いているように思われるかもしれない。しかし、これは単なる私の実感として出てきたものだ。パリのあの群衆を見ていると、「こんなものがよくふだん統制されているな」とある種の感慨を覚えるのだ。「こんなもの」がふだんは学校に行ったり、会社に行ったりしている。それは一種の奇跡であって、奇跡が日常的に行われている。


 ここからデモの後のあのゴミについて考えることができる。なぜパリのデモはゴミをまき散らすのか。デモはほんのすこしだが秩序の外に触れている。だから、ゴミをまき散らしながら、日常の風景を書き換えていくのである。あのゴミの一つ一つが、秩序のもろさの証拠である。だからこそ、その証拠はすぐに跡形もなく片付けられるのだ。日常的に奇跡が起こっているという事実は知られてはならないのである。


 最近、日本では脱原発をテーマに掲げたデモが社会的関心を集めるようになってきた。自身も積極的にデモに参加している哲学者の柄谷行人が、久野収の言葉を引きながらデモについてこう言っている——民主主義は代表制(議会)だけでは機能しないのであって、デモのような直接行動がなければ死んでしまう(「反原発デモが日本を変える」。〈柄谷行人公式ウェブサイト〉より)。


 私は柄谷の意見に賛成である。だが、少し違和感もある。なぜならデモは、民主主義のために行われるわけではないからだ。民主主義という制度も含めた秩序の外にデモは触れてしまう。そうした外を見せつけてしまう。だからこそ体制にとって怖いのだ。民衆が路上に出ることで民主主義が実現されるというのは、むしろ体制寄りのイメージではないだろうか。この点は実はデモをどう組織していくかという実践的な問題に関わっているので、次にその点を考えよう。
 



 
 日本の脱原発デモについて、何度かこんな話を聞いた。デモに来ている人たちは原発のことを理解していない。彼らは何も分かっていない。お祭り騒ぎがしたいだけだ、と。


 先に紹介したパリでの経験を踏まえて、私はそういうことを言う人たちに真っ向から反対したい。


 デモとは何か。それは、もはや暴力に訴えかけなければ統制できないほどの群衆が街中に出現することである。その出現そのものが「いつまでも従っていると思うなよ」というメッセージである。だから、デモに参加する人が高い意識を持っている必要などない。ホットドッグやサンドイッチを食べながら、お喋りしながら、単に歩けばいい。民主主義をきちんと機能させるとかそんなことも考えなくていい。お祭り騒ぎでいい。友達に誘われたからでいい。そうやってなんとなく集まって人が歩いているのがデモである。


 もちろんなんとなくと言っても、デモに集まる人間に何らの共通点もないわけではない。心から原発推進を信じている人間が脱原発デモに参加したりはしない。彼らは生理的な嫌悪感を持つはずである。逆に言えば、脱原発という主張に、なんとなくであれ「いいな」と思う人間が集まるのが脱原発デモだろう。


 デモのテーマになっている事柄に参加者は深い理解を持たねばならないなどと主張する人はデモの本質を見誤っている。もちろん、デモにはテーマがあるから当然メッセージをもっている(戦争反対、脱原発…)。しかし、デモの本質はむしろ、その存在がメッセージになるという事実、いわば、そのメタ・メッセージ(「いつまでも従っていると思うなよ」)にこそある。このメタ・メッセージを突きつけることこそが重要なのだ。


 フランス人はよく日本のストライキをみて驚く。「なんで日本人はストライキの時も働いているの?」と言われたことがある。何を言っているのかというと、(最近ではこれはあまり見かけないけれど…)ハチマキをしめて皆で集会をしながらシュプレヒコールを挙げている、あの姿のことを言っているのである。ストライキというのは働かないことなのだから、家でビールでも飲みながらダラダラしているのがストライキというのがフランス人の発想である。私はこの発想が好きだ。


 デモも同じである。デモにおいて「働く」必要はない。高い意識を持ってシュプレヒコールを挙げたり、横断幕を用意したりしなくていい。団子でも食いながら喋っていればいい。ただ歩いていればいい。なぜなら、単に群衆が現れることこそが重要だからだ。


(引用ここまで・以下省略)
 


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「以下省略」としたのは、そこで展開されている國分氏の論よりも私の見通しは悲観的、という程度の違いによるものです。
気になる方は(というか、気にならない方も)、ぜひ引用元ブログにアクセスしてください。