車内での携帯電話のご使用は

funaboristaは自転車通勤です。
雨が降っても多少なら自転車ですが、結構厳しい降りだとあきらめてバス乗り継ぎです。
ただ、帰りが朝早い時間なもんで、バスが走ってないんですね。
だもんで、一時間半以上歩いて帰らなければなりません。
まあ台風とか、あまりに大雨って時は始発まで待ちますが、それでもタクシーに乗る金なんてありません(ビンボーですからね)。
始発まで待って帰ればいいのですが、バス代300円(都バスは200円ですが、乗り継ぎ割引があるんです)だって正直言えば惜しい。
東京が、前日夕方に大雨→その後降りが弱くなった朝は、トボトボと歩いて帰るfunaの姿を思い浮かべやってください。


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あれは去年の台風シーズンの事。
出勤前の夕方に急に雨が強く降ってきて、大慌てでバスに乗り込みました。
1本目のバスはいつも混んでいて座るなんて夢のまた夢ですが、2本目の乗り継ぎのバスはいつもすいていて、だいたい乗ってくるのはいつも5、6人。
しかも、5分ほど行ったところの大きな交差点で数人は降りてしまうので、そこから先はいつも2、3人なんです。
二人掛けの椅子に一人で座って、携帯で今日明日の天気を確認しながら、さて帰りは歩いて帰ろうか、それとも始発まで職場の片隅でやり過ごそうか、なんて考えていたら、


「車内での携帯電話のご使用は、他のお客様のご迷惑となりますのでおやめください」


とのアナウンスが。


ご迷惑? 他に客なんで2、3人しかいないじゃない。
しかも俺の近くには誰もいないし。
っていうか、だいたいいつから都バスで携帯サイトを見ることがNGになったのよ?
(全国には、乗車中は携帯の電源を切らなきゃならない、なんて所もあるみたいですね。)
と思いつつも、まあこんなことで運転手とトラぶっても仕方ない、と思って携帯をポケットに入れました。


ところが、また、


「車内での携帯電話のご使用は〜」


えっ、と思って運転手の方を見る。


運転手もこちらを見て、えっ、って顔をする。


その瞬間、全てが理解できました。


実は私の後ろに、「“一人で”誰かと会話しているかのようにしゃべっている人」がいたんです。
どうやらその声の主が私だと運転手が思ったようで、「手に携帯+会話のような声→電話している、注意しなきゃ」となったようなんです。


運転手もすぐに理解したようで、それ以上「車内での〜」とは言わなくなりました。


あれ以降、都バスで携帯サイトを見ていても、特に注意されたことはありません。
やはりいけなかったのは「携帯で通話」だったようです。


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後日、どうして携帯をポケットにしまったんだろう、というのを考えてみたんですが、そのとき気がついたのは、funaは「“一人で”誰かと会話しているかのようにしゃべっている人」のことを「迷惑」だとはこれっぽっちも思ってなかったんですよね。
遭遇しても、ああこういう人時々いるな、ってくらいのもんで。
実はこれ、世間的に「○○は迷惑」って言われていることの多くがfunaにとって当てはまります。
ウォークマン(古っ!)の音漏れ」耳が痛くならないのかな、と心配にはなりますが、特に迷惑だとは思いません。
「車内でのメイク」ズレたりしないのかな、揺れてペンが目に刺さったら、などと心配にはなりますが、特に迷惑だとは思いません。
そしてもちろん、「車内での携帯電話のご利用」も、それが通話であっても特に迷惑だとは思わないんです。


きっと根がガサツなんでしょうねwww


そういう人間が、「人に迷惑を掛けないように」行動しようとしたらどうなるか。
「人が迷惑と感じる」とされていることに対して批判することなく従うしかありません。
funaにとって、多くのマナーは、「funaはちっとも迷惑だと思っていないのに、それを迷惑だと思っている人がいっぱいいるらしいからしょうがなくそれに従っている」ものに過ぎません。


携帯をポケットにしまったとき、funaは「自分の心」もポケットに一緒にしまい込んだんです。


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「人が何を迷惑と感じるか」「なんで迷惑と感じるか」は、迷惑の感度が低いfunaにとっては興味深い考察対象でもあります。
「車内での携帯電話」に対しては、例えば


http://www.geocities.jp/nari_globe/nari_soc/keitai.html


http://note.openvista.jp/2008/why-we-follow-the-mobile-phone-rule/


のような考察・説明が一般的だと思います。
ただ、間違っているとは思わないのですが、どうもfuna的にはしっくりきていませんでした。
「音仮説」?
もし単純に「音の大きさ」がいけないのなら、「会話そのもの」が「マナー違反」になってもいいはずなのに、実際はそうではありませんよね。
会話は通常2人以上でするもの、1人の携帯電話に比べて2倍以上の「音の大きさ」のはずなのに。
(エレベーター内では、確かに「音の大きさ」がいけないのでしょう、「会話そのもの」が「マナー違反」とされていますよね。)
で、「共同体仮説」っていうんですけど、都会の人間が「共同体」なんて本当に感じてますか?
むしろ「冷たい視線にさらされるという現実」、マナーを守らない奴っていうレッテルを貼られるのが嫌だから、ってのが近いんじゃないの?
そしてその背景には「『レッテルを貼ることが正しい』と社会が認めている」、ルールが存在することで「『迷惑だと感じる・主張すること』が社会によって許されている」っていうのがあるんじゃないの?
・・・そう思っていました。
その考えは今でも変わりませんが、先日funaはある出来事から「それ以外」の理由の存在に気がついてしまったんです。


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この間、地下鉄に乗った時のこと。
平日の昼間、それも各駅停車だったので都営新宿線はたいして混んでもいませんでした。
急行待ちで駅に止まっていたとき、学生かな、と思われる人の携帯電話が鳴って、その人は電話に出てちょっと話して、「今電車乗ってるから切るね」って言ってそれで通話は終わったんですが、近くにいた人がものすごい勢いでその人を睨みつけていました。
そんなに怒ることかいな、とガサツなfunaが思っていたら、ほどなくして「『一人で』誰かと会話しているかのようにしゃべる人」が乗ってきました。
そしてちょっと「一人で」会話したかと思ったら、すぐに“車掌ごっこ”を始めたんです。
あらら、この人、またさっきの人に睨みつけられちゃうかもしれないな、と思っていたら、


・・・・・今度はその人、「一人で会話の人」の方は見もせずに、別の車両に移ってしまいました!


さっきの携帯電話も、イヤなら別の車両に移ってもよかったのにね。


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funaは気がついてしまったんです。
もしかしたら、「携帯電話での会話そのもの」が迷惑なんじゃなくて、「携帯電話で会話する人」と「一人で会話する人」の区別がつかなくなる事が「迷惑」なんじゃないかって。
心の底ではそう思っている人が結構いるんじゃないかって。


「携帯電話で会話する人」は、「一人で会話する人」を「正しく忌避できない」から迷惑だ、と。


それと少し似た話。
大阪で「公務員の入れ墨は〜」なんて話題になって、条例の是非とは別に「入れ墨はイヤ」という人が結構いて、それって「入れ墨自体が危険」「入れ墨入れてる人は全て怖い」ってよりも「入れ墨入れてると怖い人と区別がつかない」っていうのが、多くの人の感覚なんじゃないのかな。


「入れ墨入れてる人」は「反社会的勢力の構成員」と「区別がつかないから」怖いのだ、ってね。


「入れ墨が悪いのはそれがルールだからだ」という主張がされたとき、左派陣営は当然「それはルール(を決めること)自体が間違っているのだ」と返しました。
では「車内での携帯電話」は?
「そんなルール(を決めること)自体が間違っている」とは思いませんか?
少なくとも事実上、「『携帯電話で会話する人』と『一人で会話する人』の区別がつかなくなる事が迷惑」だって思っている人を「手助け」し、その考えに「賛同」しているのも同然の行為であることには違いないのに。
もし、今までそんなこと考えもしなかったというあなた。
↑のfunaの珍説?を聞いた後でも、心に何のわだかまりもなく、車内での携帯電話を「迷惑」だと思えますか?


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たまたま2chではこんな話題が(http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1341393171/)。
「車内での携帯電話がなぜ嫌われるのか意味不明」って人が、思ったよりも多くて安心。
それと「336」、funaと同じ指摘をした人がやっぱりいましたよ。
個人的には「190」になるほどそうかもしれないと。
それと、まったく賛同できないけれど「175」のような人もいて、世の中にはいろんなひとがいるなあと。
でも、「車内での会話は〜」というのがルールになってしまったら・・・
・・・いや、意外と日本人は簡単に受け入れちゃうんだろうなあ。
「イヤならタクシーに乗ればいい(キリッ」なんてねw。
そんなはずはない、なんて言えるわけありません。
現に「携帯電話での通話禁止」というルールに関しては、何の抵抗もなく受け入れてしまっているのですから。


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もし「迷惑」だと思っていなかったら、いや、たとえ「迷惑」だと思っていても、そのルール自体が社会に悪影響を及ぼすものであるならば、そんなルールはやめようと声を上げるべきでしょう。
「公務員の入れ墨禁止」は「憲法の幸福追求権規定」に抵触する悪法です。
同様に「車内での携帯電話通話禁止」は「障碍者差別を肯定・助長する」悪法だとfunaboristaは思うのです。


「迷惑」という感覚は「文化」によって異なります。
多くの国では「車内での携帯電話」は迷惑ではない、とも聞きます。
あなたのその「車内での携帯電話は迷惑」という感覚、「ルールが存在するから」「迷惑だと感じることが許されているから」、だから迷惑だと「社会から感じさせられてしまっている」のではありませんか?
たとえば多くの人々の「入れ墨公務員」や「生活保護受給者」に対する感情のように。


 
その「迷惑」という感情、本当に「あなたのもの」ですか?