「共同体の他者」という風景

「車内での携帯電話のご使用は」コメント欄で月ノヒカリさんとの話が面白くなりそうだったので、続きをエントリーとしてみました。


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中島義道の著書(の一部)は、実はひきこもりのバイブル的存在


なるほど。
でも、それと「極端な人」っていうのは両立しますよね、っていうか実際に両立していそうですよね。
(「狂人」定義は私の個人的なものですので、一般にそこまでの捉え方をされているかは定かではありません、というかだいたい、一般にはあまり知られていない人だと思います。)


>2chの隠語表現って、直接的な差別を回避するために隠語を使ってるんじゃないかなあと感じるんですよね。


一般社会ではそうかもしれませんが、少なくとも2chでは「回避するため」っていう感覚は無いと思います。
あれは「2ch初心者じゃないっていうことを示すため」または、むしろ「より陰湿に差別するため」なんだと思いますよ。


 


さてここからが本題。


>ふなぼりすたさんと私では、「共同体」の捉え方がちょっと違うみたいです。


確かに違うかもしれない、と思いました。
それについてつらつら書いてみたいと思います。


>ある男性評論家(誰だか覚えてないです)が、「目の前で化粧をする女子高生を見るとイラッとする、<目の前に俺がいるんだぞ>と言いたくなる」と書いていたのを読んで、ああなるほどと。


この「怒り」、私は「俺が人間として(男として?)見られていない」という怒りだと思うんですよ。
つまりこれ、「共同体」の問題じゃなくて、本質的には「対」の問題だと思うんですよね(もやっと吉本隆明w)。
「後ろの席の人にひとこと断りを入れるかどうか」も「対」。
「袖擦り合うも多生の縁」も「対」。
「同じ電車に乗り合わせた人を「人間」と見なせるかどうか」も、要は「対」の問題だと私は思っています。


そこに「共同体」という概念を持ち込む必要はありません。


しかし、それでは「怒り」を「正当化」できない。
「怒り」それ自体は、その人自身の中では100%正しいんだけれど、たとえば「それはあなたが取るに足りない人間だからですよ」と言われたら、それに対して有効な反論ができなくなってしまうのです。


だって「対」では、価値観は1対1で「対等」ですから。


だから「共同体のルール」なるものを持ち出して、そのルールに違反しているから怒る、とすることで自分の主張に説得力を持たせることができる(私に言わせれば、説得力を持たせることができた、と思い込むことができる)。
ここで初めて「共同体」を持ち出す必要性が出てくるんだと思うんです。


私はいつも、「共同体では○○というのがルールだから」という理由で怒る事、それ自体が問題だと思っていますが(例:国歌斉唱せよ)、今回のケースは「私的怒りの正当化」に共同体を利用している形であって、ある意味前者よりも問題の根は深いと考えています。


 


そうそう、ちなみに私は、目の前で化粧をしている人に対して「不安」以外に思うことは「そんなに忙しい生活で、きっと大変なんだろうな」というようなことです(こういう感覚の人は意外と多いと“信じて”います)。
これは、私がその人を「他人」として見ているという証拠ですが(別に助けてあげたいとか思いませんからw、だから「他人」)、決して「人」として見ていないという訳じゃありません。
それに、例えば家族なら、化粧をしているところを見られるのはある意味当たり前で、それを以って人間じゃなくて風景とみている、という訳でもないですよね。
(中には、妻にも「俺にノーメークを見せるな」っていう男もいるようですが、そんなこと言う奴は私に言わせればDV一歩前です。)


で、ここで「電車内化粧に対する怒りは「対」じゃないよ「共同体」だよ」って思っている方に質問したいのですが、
じゃあなんで、公共の空間で化粧をしている人に対して、わざわざ「怒り」を感じるのでしょう?
「あきれる」だったら、まだわかる。
なぜ「電車内化粧」で、ルールを破った→「怒り」なんでしょう。


そしてもう一つ。
信号が赤だから止まっていたら、信号無視して渡った人がいました。
「危ないなあ」とは思うでしょう。
「車は迷惑だろうに」と怒りもするでしょう。
しかし、「俺がいるんだぞ」とか「俺と言う人間が風景だと思われた(俺に注意される可能性が0と思われた?)から渡ったな」とか、そんなこと思いませんよね。
なんで信号無視した人には“そのようには”怒らないんでしょう?


 


私は、むしろ、車内で化粧をしている人に怒る人こそ、その人たち一人一人に対しての事情などを考えようとする態度を放棄し、彼らを「車内で化粧をする人」というステレオタイプで捉えて、つまり「一対一の人として」ではなく「共同体の中の他人という風景」として捉えているからこそ「怒る」ことができるのではないか、そう疑っているのです。


 


ちょっと収拾がつかなくなってきたのでw、ここで(言及しなかった点も含めてw)強引にまとめてみると、今回の話(「電車内共同体」の話)は、


a.共同体のルールを守らない人(=A)は、“他人を風景とみている”かもしれないし、そうではないかもしれない。


b.Aを許容する人(=B)は、“他人を風景とみなすことを許容している”とは限らず、さらに“Aという人間を風景とみなしているからAを許容できる”という話ではもちろんない。


c.Aを許容できない人(=C)は、その本当の理由が“共同体のルールを守らないから”とは限らない。またAを許容できないことが“他人を人として見ている”ことの証明にはならない。


d.そして私は、Cは他者を「“共同体に所属する他人”という“風景”として見ている」という疑いを持っている。


 


月ノヒカリさんには、もしかしたらこう問い返されるかもしれません。
「風景じゃないからこそ、相手が人間だからこそ、怒りという感情も湧いてくるんじゃないのか」と。
私個人としては、↑に完全に同意します。
しかし同時に、世の人々が↑だとは必ずしも思えないのです。


以前、月ノヒカリさんと私は「批判」を巡ってやり取りしましたが、その中では「批判とは、相手と対等に向き合う事」というのが二人に共通の“あたりまえ”のことでした。
しかし、世の中の多くの人は、「批判」とは「自分が絶対に正しいと考えているから=相手と対等の立場にないから→自分を棚に上げることによって」できることなのだ、と思っている、ようなんです。
で、今回のエントリーで指摘した「怒り」とは、このような「多くの人にとっての「批判」の時の心の動き」に近いもの、つまり、多くの人にとっての「相手を対等の人間とはして見なしていないからこそ起こる感情」だと私は思っているんです。


 


なんでこんな、それってそんなに細かく分析する意味あるの?と思えるようなことを書いたのか。


唐突ですが、引きこもりになるうちのあるタイプの人って、他人に対しての感受性が「真面目すぎる」んだと思うんです(私もちょっとその気があります、って↑のくどい話でわかっていただけますよね)。
そういう人たちは、おそらく「他人を風景として見ることは悪いこと」だと思っていて、その上で「昔は“共同体”が機能していて他人を人として見ていたが、今はそんなの機能してなくて他者を風景として見てるのだ」なんてのを聞くと、「自分は(昔の普通の人に比べて)なんてメンタル弱いんだ」とか「もっと頑張って、一人一人をもっと“人として”尊重しなきゃ」なんて思ってしまうと思うのです。
そんな人たちに私は言いたいんです。
「もしかしたら、あれはおそらく、あなたの考える「人間だとみなす」とは別の話かもしれないよ」って。


「真面目すぎる」人の「人間だとみなす」は得てして(息苦しくなるくらいに)レベルが高かったりするんですけど、普通の人の「人間だとみなす」は、もっと低レベルの、下手したら「人間という“風景”だとみなす」程度のものかもしれません。
そして現代は、そんな「建前」を「捨てた」だけなのかもしれません。
(もちろん私は、そんな「建前」が維持できる社会の方がいい、と思っています。それは、社会にそれを維持できるだけの「余力」があるという証拠だから。ストレス社会、そして経済優先社会は、そんな「余力」を根こそぎ奪ってしまっています。)


 


>共同体が「一人で会話する人」をどう扱うか?


おそらく「近づかない」「かかわらない」でしょうね。
・・・と書きましたが、これは私の数少ない旅行経験からですが、大いに地域差があると思います。
私の感覚では、東京と、それに近い都市だけが、それこそ露骨に「近づかない」「かかわらない」で、その他は結構そうでもないんじゃないかな、と。
なので、とりあえず「東京基準」で書きますと、


>もしかして「一人で会話する人」って子ども以上に治外法権的な立場にいるのでしょうか?


「もしかして」どころか、まったくもってその通りです。
「一人で会話する人」は、「共同体のルールを守れない」それでいて「責任を問われることがない」(とフツーの人は思っている)人ですから。
多くの人は「できたらかかわりたくない」んです、きっと。


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とりあえず今回はこのくらいで。


旅行中の、あの「帰ったら週2回は更新しよう」という決意は何だったんだろうと思う今日このごろです。