「共闘」と「連帯」

しばらく、お盆休みをいただいておりました。
・・・って訳じゃなくて、単に暑さにやられてしまって、ブログを書く体力が残ってなかっただけです。
書きたいことはいっぱいあったのですが、最近時が経つのが早すぎて、世の中や身近な話題についていけていません。
こういう時は時事ネタ(あずまんの朝生憲法とか。これも古いかw。)は諦めて、いつでもOKなネタを書くことにします。
書き上げるのに日数がかかっても気にせずUPできますからw。


(日数気にせず書き上げてみたら、過去最高の文字数になってしまいました<(_ _)>。よってここで折りたたみます。)




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ここひと月くらい、私の普段見る“ごく狭いネット界隈”で「共闘」と「連帯」についての話題が結構取り上げられていました。


橋下徹(=レイシスト)との脱原発での「共闘」は可能か」


西尾幹二(=核武装論者)との脱原発での「共闘」は可能か」


で、そこでの各論者の主張は「○○なんかと共闘できるはずがない」といったような断定的な書き方をされているもの、そしてその考えと異なる意見を非難する論調のものがほとんどでした。
もちろん、各論者はそれぞれ個人的に検討済みで、その結果だけを書いているんだと思いますので、別にそれが悪いというのではないんですけれど、いわゆる「フツーの人」があれを見たら「お前、そんなこともわからないのか」「説明なしでわからないような奴は、この問題を論じる資格なし」「だいたいこんなのもわからん奴は、差別者/核武装論者と一緒だ」って言われてるようにきっと思っちゃうんだろうなあ、とは思います。


私としては、各論者がその結論に至ったまでの思考のプロセスが見たいのです。
というのも、私の考え方ってどの論者ともどうも微妙にズレているような気がするんですよね。
それと、今の私には「共闘」「連帯」について具体例に即答できるような、数学における「公式」めいたものがありません。
いちいち自分の中にある「定義」に戻って考えているような状態です。
しかもその「定義」そのものが、もしかしたら設問や今後の自らの思考よって変化するかもしれない、とすら思っているんです。


なもんで、今回は私が「共闘」「連帯」をどのように考えているかを、プロセス込みで書いてみたいと思います。
そのうち一部分は、まさに今考えながら書くことになると思います。
なので、書き出しと最後では、主張に矛盾があるかもしれませんw。
その時は、書き出しが昨日までの考え、最後の方が今日の考え、と理解してくださいwww。


質問・批判大歓迎。
なにしろ私にとってありがたいですから。


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まずは「共闘」。


私にとって、「共闘できるか」という質問に答えるには、


1. 敵は誰か 2.何について戦うか 3.どんな状況か


という3つが必要不可欠な情報になります。
というのも、私にとっての「共闘」とは「条件によっては誰とでもできるもの」であるからです。


例えば、突然ですが“宇宙戦争”が起こって、地球人の生き残りが私と橋下徹含めて他数名、共闘しなければ人類は滅びる、っていう条件であれば、「宇宙戦争について、橋下はレイシストだから共闘できない」とは、少なくとも私は考えません。
(「それでも私は橋下とは共闘できない」という人を、私は批判しませんが、↑の条件下で橋下と共闘した人を「レイシストと共闘した」と批判する人に対しては、私はおそらく批判するでしょう。)


まあ、ここまで極端な条件でなくとも(この極端さが、逆に「共闘しづらさ」を表しているとも言えますがw)、いわゆる「国共合作」について「蒋介石(=売国奴)と共闘した」と言って毛沢東を批判したりはしませんね(はじめからこの例でよかったような気がしますw)。


つまり、私の「共闘」に対する考え方では、「○○とは、いかなる条件下でも絶対に共闘できない」ということはないんです。


それから、上の3条件以外では「共闘相手の能力」も考慮に入ります。
すぐに裏切ることが予想される相手というのは、つまりは突然戦闘能力が0以下(寝返った上で自分を攻撃してくるのであれば当然戦闘力マイナス)になってしまう訳ですから、おいそれとは共闘できないでしょう。
(一応書いておきますが、デモに参加する個人や、ネットで自分の考えを書くだけの人であっても、私はその人たちのことを「戦闘能力0の人」だとは、もちろん考えておりません。)


逆に「共闘」の際に問われないもの、それは「心」です。
ある人が共闘相手をどう思っていようと、それは外部からも共闘相手からも批判されるべきではない、と私は思っています。
つまり「好き嫌いを乗り越えて運動を広げる時、「共闘」という考え方が有効である」と理解してください。


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つぎに「連帯」


私が「連帯」できるもの、それは「人」だけです。
って書くと“えっ何それ”って言われそうですが、ようするに私という「個人」は「団体」や「法人」とは連帯できませんよ、っていうことです。
じゃあ労働組合をつくって連帯しようってのは認めないのか、っていうとそうではなくて、私「個人」が連帯できるのはその労働組合を構成している一人一人のやはり「個人」であって、労働組合同士は労働組合同士で連帯するのはもちろん“あり”で、でも、「個人」と「団体」は連帯できないよね、というより、そこに「連帯」っていう言葉を使うのはやめようよ、って話なんです。
「連帯」の条件の一つとして「対等な関係」ってのが自分の中にあって、団体と個人の間は、どこまで行っても対等な関係にはなりえない、むしろ“原理的に”団体は個人に対して抑圧的に作用してしまう、だから「連帯」ではないってことにしましょう、って話なんです。


逆に言えば、「共闘」は別に対等でなくてもいい。
個人と団体の共闘は、もちろんあり得ます。


なんでこんなことを書くかというと、「連帯」に対して、多分に感情的・情緒的なものを感じているからなんでしょうね。
「連帯」には感情が伴っていて、だから「共闘」よりハードルが高い、そう思っているんです(これは何か理論に基づくものではなく、単なる思い込みですw)。


 


もし、全労働者が連帯できれば、それはそれに越したことはありません。
しかし過去、そして今も、「男性」は「女性」の雇用環境を犠牲にして自らの雇用を確保してきましたし、「正規」は「非正規」の雇用環境を犠牲にして自らの雇用を確保してきましたし、「健常者」は「障碍者」の雇用環境を犠牲にして自らの雇用を確保しています。
これらを、例えば将来謝罪したとして、それではさあ今から「連帯」しましょうと、男性や正規や健常者が呼びかけるのって、お前らにそんなこと言う資格があるのかと、私は心が狭いのでどうしてもそう思ってしまうんです。
女性や非正規や障碍者が「“連帯”なんてまっぴらごめんだが、“共闘”くらいはしてやるからありがたく思え」って言えるくらいがちょうどいいんじゃないでしょうか。
そして、「共闘」して、自分たちの為でなく彼らのために闘って、その後はじめて、男性や正規や健常者は「連帯」を口にする資格を手に入れるのだと思います。


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ついでに「絆」について。
これは私の中では「連帯 マイナス 闘争」です。
つまり「絆」には「敵」が必要ないのです。
逆に言えば、「連帯」するには「共通の敵」を持つことが必要だともいえます。
共通の敵を持たない者同士が「連帯」する必要はなく、それは別に悪いことではありません。


日常生活において、特に身近な人の間で、「絆」は大事です。
しかしここ近年、「闘わなくてもいいんですよ」「争うことは良くないことですよ」という意味で「絆」という言葉が使われていますよね。
それを言い表した秀逸なコピーが、先日のエントリーでもある「だって絆があるから」。
「絆」とは今や、そこにある問題を覆い隠し、心で乗り越えさせようとする運動のスローガンとしての言葉に成り下がってしまったかのようです。
もちろんその責任は、「絆」という言葉自体にあるのではなく、そのような意味で使う人間(=日本人)の側にあります。
油断していると、「共闘」「連帯」という言葉も、おなじような運命を辿ってしまうかもしれません。
(先日「連帯」という言葉に同じような運命を辿らせようとした御仁に出会いましたが、それについてはまた後日。)


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「共闘」「連帯」(そして「絆」)についての私の第一印象?が出そろったところで、具体例について考えてみます。


西尾幹二(=核武装論者)との脱原発での「共闘」は可能か」


核武装が正しいとする論理は存在しませんし、核武装と矛盾しない脱原発という理論も存在しません。
存在しないものを信じる人は「思考する能力に著しく欠ける人」と判断せざるを得ません。
正しくないけど矛盾はあるけど仕方なく、というのであれば、「脱原発」もいずれ“仕方なく”「脱・脱原発」となるでしょう(まあ西尾氏は前者でしょうが)。
これでは共闘のしようがありません。
結論。


西尾幹二(=核武装論者)との脱原発での「共闘」は不可能


 


橋下徹(=レイシスト)との脱原発での「共闘」は可能か」


この人は「寝返り」がデフォルトなので、共闘は不可能です。
たとえ私がレイシストであっても、この結論は変わりません。
結論。


橋下徹(=レイシスト)との脱原発での「共闘」は不可能


(これだとレイシストの部分は考えてないんですが、それも含めてこの問いはもう一度振り返ります。)


 


「日の丸掲げて脱原発デモ行進する人」


私が先日デモで会った人なんですけど、これは前2つに比べて若干微妙ですね。
その人の頭の中では「日の丸」が「美しき日本の国土」の象徴になっていて、そこが私にとっては批判の対象なんだけど、「美しき日本の国土」を守れ、ってのは愛国心の薄い私にもある。
でも日の丸の彼の愛国心と私の愛国心は、明らかに違う。
さて、どうするか・・・


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・・・で、ここでちょっと違う角度から考えてみたいんですが、


よく、「“○○と共闘する”=“○○と同じとみなされる”」って人は言うんですけど、あれ、何かおかしくありませんか?


おかしくないよ、一般的に同じとみなす方が正しいんだよ、っていうんでしたら、まあそれじゃしょうがありませんね、ととりあえずしてみます。
ただ、もしそうだったら、私はほとんどの人と「共闘」なんかできないなという結論に、どうしてもなってしまいます。
それはリベラルで名の知れたいわゆる有名人だけではなく、ほとんどの一般ブロガーの人達に対しても同様です。
そしてそれは、「人はそれぞれみな違うのだから、同じとみなされるのを原理的に拒否する意味合いで共闘を避ける」ということではなく、「実際に考え方が違うので(だからブログなんかを書いているんですw)、↑のような解釈をされてしまうのであれば共闘などできない」。
よーするに(心が狭いから?)「あいつと同じと思われたくはない」んですw。
(翻って多くの右派は、心が広いからか、そこらへんは気にしないからか「別にあいつと同じと思われたっていいや」なのかもしれませんね、よくは知りませんがw。)


でもまあ、そんなの(心の狭さが原因で共闘できなくなること)は嫌なので、なんで「“○○と共闘する”=“○○と同じとみなされる”」なんて世の中では言われてしまうのか、少し考えてみました。
(みんながそんなふうに思わなきゃ僕だって共闘できるのにぃ、っていう心の叫びですw)


思い当ったのは「共闘した途端に、お互いを批判しなくなるから」。


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大阪市長選で、対橋下徹対策として多くの反橋下派、特に左派が現職の平松邦夫を推したわけですが、そうしたら昨日まではにぎやかだった平松批判が、なぜかトーンダウンしてしまいました。
住民投票条例の件も話題にのぼらなくなりました。
これ、一般人からしてみたら「だから左派は信用ならないんだ」って思いませんか?


「共闘」は、所詮妥協です。
相手が考え方を改めるのを(とりあえず今は)妥協して諦めて、考え方が違うけれど共に闘う、のが私の考える「共闘」です。
(まあお互いに↑のように思っているんだとは思いますがw。)


候補者が橋下徹平松邦夫の2人だけだったら、私は平松氏に投票します。
棄権して、結果橋下を利するのは愚かです。
しかし、平松批判を緩める気には全くなりません。
選挙で推すから批判を控える、ということは、


「自分の考えを理解してもらうのをあきらめて(どーせおバカな有権者には理解できないだろうから)、とりあえず(そのままのおバカでいいから)平松に入れてもらえるように誘導した方が得策だ」


というようにしか、私には思えないのです。


「共闘」では妥協しても、ココは妥協しちゃあいけないトコロでしょ!


「批判をしない点について」共闘相手同じと思われるのは、ある意味当たり前のことです。
しかし、たとえある運動について「共闘」していたとしても、別のある部分を同時に「批判」していたとしたら、「“別のある部分についても”共闘してるからには同じとみなされて当然」というのは単なる「いいがかり」に過ぎません。
先の例で言えば「毛沢東蒋介石と同じ売国奴、なぜなら両者は“共闘”しているから」というのは正しい認識・批判じゃないですよね、ってことです。
ですから、妥協して批判を遠慮したりしてはいけないのです。


話を選挙に戻せば、結局左派の信頼はより一層失われ、おバカはおバカのまま、もう最悪でした。


「平松にはこれだけ批判するところがある。決して満足のいく候補者じゃない。でも橋下、こんな平松に比べても、あいつは桁違いにヤバいんだ。」


こういう応援?だったら、もう少しいい勝負になったんじゃないかと私は思うんですけれどね。


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ちなみに私の考える「連帯」とは、「(ある運動に対し)妥協する必要がないもの同士の間でできるもの」。


ですので、問題の立て方(敵の設定等)によっては、ある人とある人はある場面では「連帯」できるかもしれませんし、ある場面では「連帯」はできなくて「共闘」となるかもしれません。
しかし私は、それは悲しむべきことではないと思います。
自立した個人であれば、むしろそれは当然でしょう。
久野収佐高信氏に言った言葉ではないですが、「ケツの穴まで連帯を求め」る必要はないのです。
ですから、ある問題に対して「連帯」できないという結論に至ったとしても、「共闘」するのであればそれは批判される筋合いのものではない。
そしてもちろん、「連帯」したからと言って、お互いを「批判」してはいけない、という訳ではありません。
むしろ、「連帯」する相手にこそ、的確な「批判」が必要です。
「共闘」ではそれほどでもありませんが、「連帯」は一種の「内部化」です。
内部から批判できない組織は、内部から崩壊していきます。


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ここで「日の丸掲げて脱原発デモ行進する人」に戻ります。


↑で、まだ考えていない要素がありました。
3.どんな状況か です。
今、「日の丸派」と脱原発で共闘しなければならないほど追い詰められているかっていうと、・・・決してそうではないですよね。
アンケート取れば脱原発は多数派だし。
ただ、投票などのいろいろな行動に移さない/移せないだけで。
この現状で、私は「日の丸脱原発派」と共闘する必要を感じません。
しかも、まあ私個人であれば今までも日の丸批判をしてますが、特に今回の脱原発運動の為に立ち上げた「団体」にとって、「同じと見られないための共闘相手に対する日の丸批判」など、単なるエネルギーの無駄遣いです。
しかしここで「批判」をしなければ、一般人に“両者は同じ”とみなされても仕方ないでしょう。
つまり「左派脱原発団体」にとって、「日の丸脱原発派」と共闘することは、現状デメリットしかありません。
結論としては、現状日の丸脱原発派と「私個人はわざわざ共闘しようと思わない」「左派脱原発団体は共闘しないほうがいい」。
そしてこれから先、まずは「共闘しなくてすむよう=追い詰められないよう」運動が広がるように努力すべきです。
結論。


→「日の丸脱原発派」との「共闘」は、現状メリットがない。故に共闘しない方がよい。私個人は共闘しない。
しかし、どんな状況でも「日の丸派」と全てにおいて共闘しない、という意味ではない。
(まあでも、私にとって日の丸は差別の象徴なので、何においてなら共闘可能かを考えるのは大変難しいですね。結局戦争レベルの事態でも起きない限り共闘はしないのかなあ。)


そして、もう一つの宿題。
橋下徹(=レイシスト)との脱原発での「共闘」は可能か」


脱原発」を語るには、「労働差別」について語らなければなりませんので、どうしても「橋下批判」は避けられないでしょう。
で、橋下が過去自分を批判した相手に対してどういう態度を取るか、これは誰もが知っていることです。
「共闘」の可能性を検討するだけ時間の無駄ってもんです。
結論。


橋下徹(=レイシスト)との脱原発での「共闘」はやっぱり不可能
しかし、どんな(以下同文)。
(まあでも、(以下同文)。)


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これで一通り予定が終了しましたが、しかしこの話、ここで終わりません。
ここまででもものすごく長くなってしまっていますが、もう少しだけおつきあいください。


ここまで私が「共闘」「連帯」をどのように考えているかを書きました。


「共闘」「連帯」相手にも「批判」を遠慮してはならない。
それが「共闘」「連帯」の条件の一つである。


一言でいえば↑のようになりますが、それを踏まえた上で最近私が見聞きした「共闘」についてのトピックを2つほど。


一つは、世間一般「共闘」を志向する人は共闘相手を、実際はやっぱり批判しないというお話です。
そしてそれ故に、ある人(団体)は自らの主張に自ら制約を掛けることとなり、この先その人(団体)の「脱原発の運動・思想」はやせ細っていってしまうかもしれません。


池田香代子氏のツイートより


https://twitter.com/ikeda_kayoko/status/224143759972106240


脱原発杉並‬ は「日の丸を振る人にも来てほしい」という方針のもと、西尾幹二さんに賛同者になっていただきました。お願いに上がったのは私です。西尾さんとは「新しい歴史教科書」問題で真っ向対立してますが、それと原発は関係ない。教科書問題は別の所でやりあいます。」


原発問題の一つの根幹はもちろん「差別構造」にあるわけですが、それに言及することは、必然的に「教科書問題」に触れてしまうことになりますし、意図的に?ツイートには書かれていない「核武装論」にも触れることになります。
「それと原発は関係ない」「別の場所で」ということは、つまり「自らの脱原発運動では今後差別構造については触れない」という宣言、それが「池田香代子にとっての脱原発「共闘」での妥協可能点」だ、ということです。


私は池田氏を、「共闘」を理由に、「共闘は絶対に許されないから」批判するのではありません。
「共闘できる」ということが、「差別を容認できる」ことであるとみずから告白している、そのことを批判するのです。


この先池田氏が、「共闘」した集会かなんかで、西尾氏の「教科書問題」や「核武装論」を批判して、まあ喧嘩別れになるとは思いますが、つまりはこの共闘が「天下国家に“核武装論者の脱原発論の欺瞞”を知らしめるための共闘だった」としたら、私は池田氏に対する評価を改めます。
伝え聞くところによると、その可能性は限りなく0に近いようですが(こういう時は“20000%ありえない”っていうんでしたっけw)。


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もう一つは、「共闘」を呼びかける人・団体の中に、口では「みんなちがって、みんないい」と言っておきながら、実際には共闘の障害になる(と呼びかける側の人間が一方的に考える)行為を「敵視」「排除」している人・団体 【 を擁護している人 】 がいる、というお話です。(【 】内を8/20追記訂正)
そしてそれ故に、ある人・団体は自らの主張に自ら制約を掛けることとなり、この先その人・団体の「脱原発の運動・思想」はやせ細っていってしまうかもしれません。


これについては・・・
他ブログのコメント欄でのやり取りなのですが、論点が多いので次のエントリーとします。
(ここまでで書き始めて3日目。いったいいつになったら次が書けるのか・・・)


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↑でだらだらと書いた私の考える「共闘」「連帯」、例えば「“連帯”には“感情”を含めない」と定義したら、また違う展開になったことでしょう。
そして「感情を含めるか含めないか」は、どちらが正しいというものではない、と思います(含めるが世界中で私1人だったら、私が間違い、←は撤回します)。
そしてこういった言葉の定義は、意外と人によって違ったりすることがあるものです、っていうか、こないだ実際あったのを私は見ましたw。
「○○と△△するなんて××だ」という批判が、傍から見てると時々あからさまに噛み合ってなかったり、意図的に噛み合わせようとしていなかったり(この場合は「批判」ではないですね)。
ツイッターじゃないんだからもう少し長く丁寧に書けばいいだけなんじゃないかなあ、と余所様の、しかもコメント欄なのに思ってしまいました。
・・・と、自身の長文擁護で今回は終了。


もちろん「お前の長文は文章が下手なだけだから!」という批判は承ります。
だけど、その批判を今後私が生かせるかどうかは別問題ですからね(キリッ