去年の今頃

去年の今頃、いったい何してたっけ?


そうだ。30日にガス湯沸かし器が壊れて、お風呂にも入れない、お湯も出ないで、不便な年末だったんだ。


お風呂のガス湯沸かしのパネルに「そういう時はここへTEL」っていうシールが貼ってあって、でも年末年始だから1週間くらいはかかるんだろうなあ、って思っていたら「明日行きます」って、大晦日に修理に来てくれたっけ。


でも、結局部品が足りなくて(温度等設定パネルの基盤不良でした。本体は何ともなかったのに。電子機器に頼るってのは結構もろいもんです。)、それでもその部品の会社に連絡を取ってくれて、その部品の会社が修理に来てくれたのは2日後の1月2日(元日はサッカーだったもので)。


結局、年末年始にもかかわらず、わずか2、3日で風呂に入ることができました。
(いや、その間風呂に入らなかった訳じゃなくて、近所の銭湯にいってきましたよ。)


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子供の頃は風呂なしアパートに住んでいて、それどころかガス湯沸かし器もなかったっけ。
冬は冷たい水で顔を洗うのが当たり前。
でも、それが不便だなんて全く思わなかったなあ。


去年暮れの湯沸かし故障だって、さっきは不便って書いたけど、本当のことを言えばたいして不便だなんて思わなかった。
水は出るし、ガス自体は出るからコンロで湯沸しはできるからお湯もできるし、銭湯はすぐ近くにあるからそれはそれで楽しかったし。


お湯がつくれなくなったら、不便だと思ったかな?
それとも水が出なくなったら、そうしたら不便だと思ったかな?


それでもコンビニがあるから、それほど不便だとは思わなかったかもしれない。


だいたい、不便ってなんだろう?
いつもと違うことなのか、いつもできることができないことなのか。


「できること」っていったって、よくよく考えてみれば本当は「自分の力でできている」わけじゃなくて、「何かに/誰かに代わりにやってもらって」いるわけで、そのくせそれが所謂「便利」であればあるほど、「自分の力でできたつもり」になっている。


(ここで「自分の稼いだ金だから〜」なんて言い出すバカには、死んでもなりたくないね。)


いずれにしても、代わりになるものがあったから、他の方法があったから、たいして不便さを感じなかった、ってことなんだろうな。


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「自立は、依存先を増やすこと 希望は、絶望を分かち合うこと」
TOKYO人権 第56号(平成24年11月27日発行)より
http://www.tokyo-jinken.or.jp/jyoho/56/jyoho56_interview.htm


(この話はこちらのブログで知りました。ありがとうございます。)


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去年の暮れは、湯沸かし器が故障して、ガス会社の人に助けられて、ちょっとだけ不便を感じて、自分が便利に生きていることに気がついた。


今年は(まだ)何も故障していないけど、暮れになったら去年のことを思い出して、自分が便利に生きていることを忘れていることに気がついた。


 


きっと忘れっぽい僕のために、わざわざ年末にこわれたんだろうな。


 


それではみなさん、よいお年を。